一人静かに内省す

日本男子を中心に体操競技応援中!体操競技について思いのまま綴っています

体操競技との出会い

昨今はSNSという便利なものがあるので国内外問わず多くの体操ファンの存在を知ることができるが、体操ファンが体操ファンになった所以は意外とわからないものである。Twitterはアカウント作成年月がわかるがイコールそれが体操ファンになったタイミングとは言い切れない。体操競技が最も注目されるのは当然オリンピックなのでやはり他のファンも4年ごとのオリンピック開催期に体操競技を見てファンになったのだろうか。個人的にはファンの方々が体操ファンになった経緯についてとても興味があるが、それを確認する術は自身が発信する以外無いに等しい。

では私はどうか。私は北京オリンピック体操競技に大きく感心を持った。もう15年も前の話だ。時が経つのがあまりにも早すぎて恐ろしささえ感じるが、私が初めて深く体操競技に触れたときの初期衝動について言葉で残したいのでつらつらと語ってみる。

当時私は大学生だった。同じゼミに木本くん(仮名)という男子学生がおり、彼を見かけるたびに誰かに似ているなと感じていた。俳優か?芸人か?ミュージシャンか?時は2008年の初夏で、テレビでは来たる北京五輪の注目競技や注目選手について連日特集していた。各競技の注目選手がピックアップされる中でようやく木本くんに似ている人が誰なのかが発覚した。

 

冨田洋之さんである。

冨田さんは体操ファンなら知らない人はいないといっても過言ではない。アテネ五輪男子団体決勝で最終演技者を務め、完璧な演技を披露し28年ぶりの団体金メダル獲得に大きく貢献した選手であった。その演技は当時のNHKテーマソングの歌詞とリンクする実況も相まって日本中に感動をもたらしたことはあまりにも有名過ぎる。私もその演技を知っている国民の一人ではあったが、アテネ五輪体操競技は深夜に行われていたこともありリアルタイムで見たものは一つもなかった。冨田さんについても最後に鉄棒で着地を決めた選手、程度の認識しかなく本人の競技力はおろか体操競技のルールも全く知らない状態であった。

私は同期の木本くんに似ているということだけでせっかくなら応援しようかなという、不順というかもはやどう形容していいかわからない動機で体操競技に注目することになった。北京五輪は当然だが中国で実施されたため時差が殆ど無く、しかも大学生の夏休み期間ということもあって体操競技だけでなく多くの競技をテレビで観戦することができた。余談ではあるがこのときに初めて見た競技がたくさんあり、マイナー競技であるがゆえに知らなかっただけで世の中にはこんなに多くの面白いスポーツがあるものだと感心したものである。

男子体操競技は開催国の中国でも当然人気競技であるがいわゆるゴールデンタイムに競技が行われることは少なく、どちらかというと昼頃に試合が行われていた記憶がある。その理由は簡単に推測できるが、それはさておき夕方から深夜にかけてアルバイトをしていた当時の私にとって試合を視聴するには最適な時間帯であった。確か予選から種目別決勝まですべて視聴した覚えがある。ちなみに予選から団体決勝あたりまで私は冨田さんをずっと木本くんと呼んで応援していた。

予選。一番驚いたのはいつの間にか10点満点制度が廃止されていたことである。今でこそそれなりに世に浸透したが、当時は10点満点制度廃止後初の五輪ということで得点の基準が把握できず非常に困った。ろくにルールも知らない私は尚のこと困ったと思ったが、結局決定点の比較だったので大会中に慣れてしまい16点が出れば高得点なのだなと把握できた(当時のルールにおいては)。

次に驚いたのは同世代の選手がいたことである。当時大学生の私は高校球児が全員年下になっていることにショックを受けていた時期だったがそれに加えてとうとうオリンピック選手まで同じような世代が出てきて頭を抱えた。マスコミは10代の選手が異様に好きなため殊更注目されているなという印象ではあったものの、今考えれば内村航平の初めてのオリンピックをリアルタイムで追えたことは体操ファンとしてかなりの財産だったなと感じている。

いまいちルールはわからないままだったが、冨田さんがエースであること、内村さんが急成長の若手選手であること、中国がとんでもなく強いことだけは理解できた。予選が終わり、冨田さんのつり輪で技が不認定になるアクシデントがあったことで個人総合の順位が内村、坂本、冨田の順位で終わり実況が困惑してたことはうっすら覚えている。

団体決勝。つり輪までは中国とほぼ互角の戦いであったが跳馬あたりから突き放され、最終種目の鉄棒では7点近くの点差になっていた。素人の私でもさすがにここから逆転とか無理ゲーやろ…と思っていたがやはり無理だった。しかし冨田さんとはいえ鉄棒の最終演技はハラハラしたが、安定感ある演技を最後まで行い、日本は銀メダルを獲得した。この結果について大会終了後、某公共放送から今だったら炎上必至のやり方で選手にインタビューした(というか詰め寄った)ことは今でも鮮明に覚えている。映像がなく証拠がないのが悔やまれる。

個人総合決勝。冨田さんと内村さんが出場していた。本来は坂本さんが出場すべきであったが、首脳陣の判断でこれまでの実績を踏まえて冨田さんを出場させたことを後で知った。ゆかあん馬は予選以上にいい実施だったことが実況の熱量から感じとった。

そしてつり輪。(屈身)ヤマワキのあと本来は倒立技に持ち込むのだが、1回多く宙返りし脚前挙支持で技をおさめた。引退後のドキュメンタリー番組で知ったが、この時ヤマワキの宙返りの勢いでプロテクターが輪からずれてしまっていた。当時私は演技内容なんぞ把握していなかったので失敗に気づかなかったが実況の慌てふためく様子に、どうやら大きなミスをしたことを察した。その後車輪から終末技のバラバノフを行ったがタックルを行う際に回転の途中で左手が輪から外れ、軸が大きく歪んだまま技を行ったことで膝から叩きつけられるような着地になった。首も大きく揺さぶられたせいか、その後待機中はずっと首をアイシングしていた。しかし残された跳馬、平行棒はそんなアクシデントがあったとは感じさせない演技を続け、最終種目の鉄棒は最後の着地を止めた。鉄棒は全選手の中で最も高い得点であったと記憶しているが、つり輪のミスが響き結果は4位で終わった。

そして種目別決勝。あん馬は安定感のある演技であったが他の選手との実力差もありメダルに届くことはなかった。そして鉄棒、中技はこれまでの中で最もいい実施だと思えたが着地で大きく一歩前に出てしまい、メダルを取ることはできなかった。

終了直後のインタビューで北京五輪についての感想を聞かれ「幸せなオリンピックだった」と答えていた。当時の私には何が幸せなのかがわからなかった。団体はアテネに続く金メダルは取れなかったし、本人がおそらく最も力を注いでいたであろう個人総合はアクシデントがあり、種目別決勝も十分に力が発揮できたとは感じられなかった。

その後在京キー局のテレビ取材を一通り終わらせ日本に帰国後は、地元の大阪に戻り知事訪問を含め挨拶回りを行っていた中で、地元ローカル局のテレビ取材を受けていた。当時コアな体操ファンがネットに違法アップロードしてくれたおかげで私はこのインタビュー映像を見ることができた。インタビュアーは個人総合決勝について触れた。つり輪でアクシデントがあり体を痛めていたように見えたが、そんな中なぜ試合を続行したのかと問いかけた。コーチ、トレーナーと相談しなんとか続けられるレベルだということで続けた、と話した後こう答えた。

 

「オリンピックは多くの子どもたちが見ている大会。そのような大会で途中で諦めるという姿を見せてはいけないと思った。」

 

私は泣いた。今でもその映像が頭の中に鮮明に蘇るが映像がないことが悔やまれる。のちのドキュメンタリーでつり輪のアクシデントで鞭打ちのような状態になっていたと語られていたが、それ程までのことが自身の身に起きていながらそこまで考えて試合を続けていたことにただただ感動し、そして強く尊敬した。

アテネ五輪後の2006年、大きなルール改正によって大技を多く演技に取り込むことが求められ、多少実施の荒さがあっても高い難度点があれば高得点が出やすい傾向だったという。そんな状況の中、自他共に認める「美しい体操」を最大の武器として競技に臨む冨田さんにとって、どれほど大変なことだったかは想像に足らない。アテネ五輪で金メダルをともに獲得した仲間は怪我に苦しんでおり、絶対的なエース且つお家芸体操ニッポンのキャプテンとして挑まなければならない冨田さんにとって、北京オリンピックを迎えるにあたってどれだけの重責を感じていたかは想像が及びもつかない。大きなアクシデントがありながらも途中で諦めず、それどころかそれまで以上に素晴らしい演技を重ね、最終種目で最高得点を出すまでの演技で終えた瞬間の充実感と達成感はいかほどだったのだろう。

インタビューで話していた「幸せなオリンピック」をようやく理解できた瞬間であり、同時に一気にファンになり今でいう沼に落ちる感覚を覚えた。

ところが各メディアで進退を尋ねられた際に「今は考えられないのでゆっくり今後を考えたい」と答えていた。いくら体操ファン素人の私でもそれが何を意味するのかなんとなく察したが、ハッキリ明言はしていないし続ける可能性もワンチャン…!とわずかな期待をしていたが、まもなく冨田さんは引退を表明した。

同年秋に行われた豊田国際での試合が国内最後の試合だったが、当時学生の私は見に行くことができず1分程度のスポーツニュースでその様子を見ただけで終わってしまった。そして12月のW杯、そこで行われた種目別鉄棒が現役生活最後の演技となった。着地こそ失敗したが、会場中からの温かい拍手でこれまで彼の功績を讃える観客と、鳴り止まない拍手に充実感にあふれた表情で応える冨田さんの姿がそこにはあった。

その後、世界選手権やオリンピックが生活に支障のない時間帯で放送している場合のみテレビで見ていたが、ファンになってわずか4ヶ月で推しを失った私にとって冨田さんのいない試合を見るのは辛いものがあり、徐々に体操競技から離れていったが東京オリンピックで復活したというのが私の体操ファンとしてのルーツである。要するに私は一度も冨田さんの演技を目の前で見たことがないのである。

この悲しさは体操ファンであればどれほどのものか理解できるだろう。15年経った今でも、なんとかして最後の豊田国際には行けたのではないかと悔やむことがある。今は社会人になりそこそこお金を稼ぎ、ある程度時間に自由がきくので遠方の試合でも観戦が容易となったが、目の前で推しの選手の演技を見られるということ自体、実はこれ以上ない幸せなことなのである。なんでもないようなことが幸せなのである(©️虎舞竜)。

多分こんな奇天烈な動機で体操競技に注目したファンはなかなかいないとは思うけど、今こうやって楽しく体操ファンをやっているのは北京五輪で冨田さんに出会えたからです。私にとって史上最強の体操選手は今でも冨田洋之さんに変わりはないです。ありがとう冨田さん。順大監督として日本体操界を支えている姿を応援しています。